「<同じ>から<違う>へ、<分ける>から<混ぜる>へ」とはどういうことか?~第2回風越コラボレポート

8月25日(土)に第2回風越コラボを実施しました。今回のテーマは、『「<同じ>から<違う>へ、<分ける>から<混ぜる>へ」とはどういうことか?』。このテーマを深めるにあたって、岩瀬が真っ先に思いついたのが赤木和重さん(神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授)でした。赤木さんの魅力を少しでも多くお伝えしたく、関西弁のまま、お届けします。

会の冒頭、まずはどのような意図を持って「<同じ>から<違う>へ、<分ける>から<混ぜる>へ」と表現しているかについて、岩瀬からお話しました。

そもそも、「<同じ>から<違う>へ、<分ける>から<混ぜる>へ」って?

「自由と自由の相互承認の感度を育むこと」を土台に据えた学校づくりを考えるうえで、思考の手がかりにしているのが、”<同じ>から<違う>へ、<分ける>から<混ぜる>へ”、です。僕たちはつい、今までの自分の経験した枠の中で思考します。そうではなく、そもそもの枠組みを再構成する・問い直すための言葉として使っています。

学校教育には、効率と規律を原理として機能している側面があります。そのためには<同じ>であることが求められる。でも、教室を、そして子どもたちを<同じ>と見ることは、壮大なフィクションだと思うのです。

今までの学校の<同じ>とは、たとえば学習進度、学び方、学習内容、時間割、評価。では、これを<違う>に変えるということは、どんなことでしょうか?学習進度が<違う>とは? 子どもによって<違う>時間割りで学ぶには、どうすればよいのでしょうか。また、今まで何を<分けて>きたのか、<混ぜた>ら何が起こるのでしょうか。

これらを混ぜたら、どんな事が起きるでしょうか。たとえば異年齢編成、探究を核とした教科横断、森と校舎、協同探究者、学校づくりのパートナーなど様々な<混ぜる>軸がありそうです。どれも、やってみなくちゃわからない。

ただ、<混ぜる>とすてきな気がするけれど、そんな単純なことでもなさそうです。耳障りのいい言葉でスローガンになっては意味がありません。<違う>や<混ぜる>を大事にすると、学校の表向きのストーリーと対立することもあり、既存の現場ではけっこう苦労したり混乱したりするかもしれない。これからの学校は、本当にそれでいいのか?と再考しつつ、<同じ>こと、<分ける>ほうがよいこともありそうです。具体的な実践を重ねながら、これから試行錯誤を楽しみたいと思っています。

続いて、赤木さんの視点から見た<同じ>、<違う>、<分ける>、<混ぜる>についてお聞きします。

<同じ>教育課程、実態は<違う>子どもたち

赤木和重さんプロフィール
神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授。専門は発達心理学。2015年春から1年間、アメリカ・ニューヨーク州にあるシラキュース大学教育学部にて、客員研究員として所属。おもな著書に、『アメリカの教室に入ってみたー貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで』(ひとなる書房)、『「気になる子」と言わない保育』(共著、ひとなる書房),『キミヤーズの教材・教具ー知的好奇心を引き出す』(共著、クリエイツかもがわ)ほか。

僕(赤木)の専門は、自閉症スペクトラム(ASD)の子どもたちを対象とした発達心理学です。教えるという行為の発達を研究しています。たとえば、赤ちゃんの目の前で型はめのおもちゃで遊びます。私が、丸の穴に四角を入れようとして「はいらへん〜」とか言ってると、1歳後半の子は僕の代わりに自分で入れたり、そこじゃなくてこっちの丸の穴に入れろと教えてくれます。言葉が出てない子でも「あ、あ」と教えてくれるんですよね。ヒトに最も近いチンパンジーでも、助けることはします。でも、教えることはしません。自分の持ってる知識や技術をこんなに早くから伝えたくなるのはヒトならではの行動です。さらに2歳半になると、言葉を使って他者に問題を出すようになります。こんなに早くから、問題を出して、相手の考える力を引き出すなんてすごいですよね。

私が教える行為に注目したのは、「自分が自閉症の子どもやったら教えられてばっかりは嫌やなぁ」という思いからです。私たちは、障害の重い子どもや、1歳とか2歳の幼児には、1つ1つ教え込まないといけないと思いがちです。でも少なくとも僕やったら、24時間教えられる人生って嫌やな、と思います。でも、障害の重い子どもや幼い子どもでも教えることができること、そして、それが人間関係の主人公になれることを研究の中で示すことで、子どもの見方や教育の根っこを変える・考えることができるかな、と思っています。

さて、「<同じ>から<違う>へ、<分ける>から<混ぜる>へ」って聞くと、なんかええ感じな気がしますね。でも、よく考えてみると、ようわからへんなとも思います。何が同じなんか。違って混ぜたら、子どもにとって、なんかええことあるんですかね。

私は、巡回相談(*1)の仕事をしている関係で、幼稚園や小学校に行き、発達障害のある子や気になる子の支援をしています。その中で、子どもの実態は事実としてどんどん違ってきている現状を実感しています。子どもの学力や性格、障害を含めた特性、経済的に厳しい家庭で育つ子ども、外国籍の子どもなど本当に多様になってきています。でも、教育方法・教育課程(同一年齢、同一内容の学習を教える)は同じまま。

<違う>子どもたちという実態と、<同じ>教育方法・教育課程というズレ。このズレが、子どもたちをより生きづらくしています。さらに全国学力テストという、強烈ともいえる「同じ」評価が教室に持ち込まれてきています。こういう中では、どうしても排除される、はじきだされる子が出てきます。こうした厳しい状況に、悩んでいる先生も多いことでしょう。これからの教育・授業のあり方はどのように構想されるべきでしょうか。

<違い>をなかったことにする

子どもたちの実態が<違う>中で授業を進めるやり方は、大きくは2つの方向に分けられます。

1つは、「子どもたちの<違い>をなくす、あるいはなかったことにする」方法です。具体的には、枠を明確にすることで、子どもたちの<違い>の影響を小さくしようとします。その1つの例として「グーピタピン!」があります。試しにここでみなさんとやってみましょう。手を膝の上に置いて(グー)、足の裏を(ピタ)くっつけ、背筋を(ピン)伸ばす姿勢をつくります。「はい、グーピタピン!」・・・(そろった参加者を見て)うわ、なんかこれめっちゃ気持ちよくなる自分がいる(笑)。これやってる先生方は、どっかで気持ちいいと思ってるんちゃいますかね…。これ以外にも、「背」筋を伸ばして、先生の「目」を見、「手」を膝の上に置く姿勢をつくる「せ/め/て」、などが現場に広まっています。他にも、机の上の赤ペンの置き場所、消しゴムの置き場所、鉛筆は2本にするなどのルールを明確に決めて、どの子にも同じように机の上の持ち物を決めさせるような指導があります。

自閉症スペクトラムの子どもの中には、「ちゃんとしなさい」ということばの意味がつかめない場合があります。「『ちゃんと』ってなにをどうちゃんとするの?」となるわけです。ですので、机の上の持ち物や置き場所を明確に指定すれば安心して学習に向かえる、という指導者の意図があります。わからないでもないです。でも、ほんまにそんでええのかな?と思います。

<同じ>学習規律を求めれば求めるほど、逆に、子どものちょっとした<違い>が目につくようになります。校則が厳しい学校ほど、ちょっとした違反・違い(例えば、髪の毛が耳に2センチかかったのでダメ、とか)がクローズアップされますよね。あれと同じです。ちょっとした違いをなんとかしようとして先生が注意する。グーピタピンを強めれば強めるほど、ちょっと動いてしまう多動の子どもが、どんどん目立ってしまい、指導される対象になってしまう。子どもの<同じ>姿を純化させることで、むしろ<排除>のほうに進む危険性があります。

<違い>から出発する

子どもたちの実態が<違う>中で授業を進めるもう一つのやり方があります。それは、「<違い>から出発する」方法です。

子どもたちの知性や感性の<違い>を前提に、授業づくり、学級づくりをおこなう発想です。先に述べたやり方とは真逆といってもよいでしょう。「サラマンカ声明」というインクルーシブ教育の基準となる国際的な取り決めがあります。そこでは「人間に相違が見られるのは当然のことであり、したがって学習は学習過程の予め決められた枠に子どもを合わせるよりも、子どものニーズに応じて調整させなければいけない。児童中心の教育学はみんなにとっても社会にとっても有益」といった内容が書かれています。しかし、各々の子どもの興味や能力の違いから出発する方法とはどういうことでしょうか?なんかええ感じのこと言うてますけど、そんなうまいくこといくんですかね?

子どもたちの<違い>を大事にしながら

この問いを考えるうえで、僕が保育者とつくった本『「気になる子」と言わない保育』の中から、一つの実践事例を紹介します。

3歳の自閉症の男の子Aくんは、本を読むなど設定された場面では他の子と一緒に過ごせますが、自由遊びの時間になると、ずっと大好きなミニカーで一人遊んでいます。図鑑も大好きで気に入った箇所に付箋をはりまくっている、そんなお子さんです。保育者の気持ちとしては「一人で遊ぶのもいいけど、やっぱりみんなと遊ばないとあかんのかな?どうかなぁ…」と気持ちが揺れます。ハウツー本を見ると、このような場面では、「こだわっているものを隠しましょう」という対応が書かれています。確かに自閉症の子どもは視覚優位の側面があるので、目にしたものに引っ張られがちです。ミニカーを見ると、ついそれで遊んでしまうんですよね。二つ目のよくある対応は、「他の子の遊びに参加させる前に、友だちの遊びを見る機会をつくって、関心を寄せる支援をする」です。確かにこれでいい気もします。さて、みなさんがAくんの担当やったらどうします?

ちなみにこの本はいやらしいつくりでして、よくある対応を書いてから、それを批判します。そのうえで、読み手にどのような対応がよいか、判断を委ねます。先に述べたよくある対応を批判すると・・・ミニカーを隠さなあかんのですかね? Aくんはミニカーが楽しい。それなら、それでええんじゃないの。「違いから出発する」というのは、ここです。こだわりをなくさなきゃいけないの?ほんま? とはいえ、どっかで他の子とも遊んでくれたらいいな、という保育者の気持ちもわかります。また揺れてしまうわけです。

 

そこでポイントになるのが<混ざる>です。正確にいえば、<違い>を大事にしながら<混ざる>です。どういう保育を指すのでしょうか?

まず一人で遊んでいるAくんを見て、「また一人で遊んでるわ」ではなく「園でも自分らしく遊べるのはいいことやな」と理解します。そのうえで、「他の子と遊びなさい」と声かけるのではなく、保育者がその子のミニカーの遊びに入っていき、その子の好きな遊びを一緒にします。楽しく遊んでいると、間違いなくその気配を察知した他の子が、「何してるの?」と近づいてきます。一緒に遊ぶきっかけが生まれます。さらに保育は続きます。保育者が、隣で積み木で遊んでいた子どもたちのところにミニカーを走らせ、「積み木の町に到着でーす!」と言います。すると、積み木遊びをしていた子の一人が、「ここはガソリンスタンドでーす」とノッてきます。それを聞いたAくんは、「いれてくださーい」と言って、何度もミニカーで給油しにやってきて、一緒に遊んだりします。

このエピソードのポイントは、保育者が「ミニカー」と「積み木」という違う遊びを「積み木の町に到着」として遊びをつなげたところです。この保育園では、他の子と同じことをさせる発想がそもそもないし、Aくんだけ個別保育をしているわけでもありません。子どもの<違い>を出発点にしながら、「一緒に遊べば楽しいよね」という感覚で<混ざり>あっていきます。背景にあるのは、「一人ひとり違っていいんだよ。でも一緒に遊べばもっと楽しいよね」という保育観です。

もう一つ、学年や発達年齢が異なる子どもたち4人が学ぶ小学校・特別支援学級での実践を紹介します。このような構成の特別支援学級で多いのは、プチ家庭教師的授業です。子どもたちがバラバラに机を離して学び、先生が個別に関わる。それが悪いわけじゃないけれど、みんなで一緒に楽しい授業をする試みもあります。たとえば、この教室では算数の時間の冒頭10分間にローテーションカードという学習を全員でやります。出たカードの数字を読み上げます。ただ「5」のカードが出たら、「ご」とは言わずに「にわとりさん」など違うことばを言う学習です。先生があらかじめ、積み木を学んでいる子には積み木のカードが、掛け算を学んでいる子には掛け算のカードがあたるように配列します。すると、一人ひとり違っていながら一緒に学ぶことができます。なぜ5を別の言葉で言い換えるのかというと、楽しく学ぶためです。別の言葉で言い換えて半分遊ぶことで、学びにひきつける。この学級の先生の問いの立て方は、どうしたら問題行動がなくなるか?ではなく、どうしたら勉強が楽しくなるか?、なのです。

 

一人ひとり違って学んでいるけど、一緒に学ぶと楽しい。でもこのカードを先生と一対一でやると楽しくないと思いません?なんでかわからんけど、一緒にやると不思議と楽しいですよね。このように、<違い>がありながら<混ぜて>いく授業づくりの可能性がここにあると思っています(『キミヤーズの教材・教具』にその他の実践事例があります)。

<違って><混ぜた>ら、<同じ>

この2つの実践事例に共通することは、それぞれの子どもの興味関心から学びが出発し、学習内容はそれぞれ違っていいんだという発想です。同時に、その<違い>が孤立化になっていません。子どもどうし<混ざり>あっています。もっとも、「通常学級では、そんなん無理!<同じ>教育方法・<同じ>学習内容で溢れているやん!」と思われるかもしれません。確かに…。とはいえ、学習内容は同じという条件の中で、<違う>学び方を選べるという手法もあります。たとえば、石川 晋さんの著書『学校でしなやかに生きるということ』に登場する「合法的立ち歩き」が好例です。古文の暗記の授業で、石川先生が、生徒に「どこでどのように覚えてもかまわない」と伝えます。時間をかけていくと、1人が好きな子どもは、倉庫の中で覚えたり、よく動く子どもは友だちとおしゃべりしながら覚えるのだそうです。そして、最後に、お互いがどんな覚えかたをしたのかをシェアしていくそうです。この授業を通して、子どもたちは、<違う>学びかたでいいんだと実感しつつ、お互いの学びを参考に<混ざり>あっていきます。

しかし、そもそも、なぜ、<違う>に加えて<混ぜる>遊びや学びが大事なのでしょうか?一番の意味は、1人では想像しえないクリエイティブな学び・遊びが起きるところだと思います。「ミニカー」だけで遊んでいた子どもが、積み木で遊んでいる子どもと出会うことで、「ガソリンスタンドに車を入れる」遊びが創造されます。「合法的立ち歩き」の学びかたをお互いにシェアすることで、自分にはなかった新しい学びかたを学ぶことができます。つまり、予想外のことが生まれるんですよね。色んな<違い>が<混ざって>つながることで、思いもしなかったことが学べてしまう、遊べてしまうということに意味があるのかなという気がしています。

良質な<違い>と<混ぜる>があわさったあとに残るのは、「違って混ぜたら同じやな」という感覚です。その実感が、社会をつくる土台になりうるのです。困ってることは一人ひとり<違う>けど、「良い自分になりたい」「楽しい遊びはサイコーやな」という思い<同じ>。<違う>けど楽しいのは<同じ>だよね、とわかりあえることで、多様性を面白がる共同体をつくっていけるのかなと思います。


*1…巡回相談:巡回相談員と専門家チームが小・中学校などに訪問して、支援を必要とする児童生徒への指導内容や方法について教員および児童生徒の保護者に助言をおこなうこと。


<おすすめ書籍>